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自己実現で生計が立てられている(結局、そういうことなのだろうか現代の自己実現の定義とは)人は、恵まれている要素があると思う。
才能 だったり、 親の経済的背景、 あの城戸真亜子は成人後も金持ちの夫と結婚して自由に創作できる環境を手に入れた、
逆に阻害する要因は何か
食っていくために仕方なく諦めた ほとんどがこれだろう。
俺たちもそうしたんだがら、おまえも諦めろ、とかも。
でも、ベーシックインカムと奨学金で本当の意味でスタートラインを同じにしてみたらどうだろう。
やりたいことをやって金にならなくても飢え死にはしない環境を設定する。
だいたい画家とか作曲家(クラシックね。ボップスは逆で椎名林檎みたいに世代が・・・閑話休題、略。)、作家とかも早熟の一握りの天才を除いては晩成が殆どだろう。ドキュメンタリーの作家とかも。
仕込みの期間があとで輝いてくる。時間が味方になる。
そうそう恵まれている要素には 健康 も外せない。
肉体的優位性とかも(イチローとか)。
そいや将棋の人で挫折して諦めたけど介護職が想定外に御自分に合っていて高齢者と心の交流が深まって同僚が応援してくれて藤井君の連勝をストップするくらいに帰り咲いた人もいたな。その人は復帰しても介護職に関わる時間を確保していて、それが実は自分のエネルギー源だったんだ、と語っていた。
食うために諦めて、それが自己実現さ、と上から目線で悟ったように言うのなら、この人は介護の職で自己実現してめでたしめでたし日本昔話で終わっているはずではないのか?
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「恋愛の作法」高橋龍太郎
意外に良かった。
高橋クリニックの高橋先生は「私の心は壊れてますか?」などの本で、先生自身の自分探しの振り返りや、青年の自分探しについて書いていた。
今回は女性向けである。おそらく宇野千代の昔の本「恋愛作法」を重ねていると思う。タイトルが似ているのも。
昔と何が違うか。
女性の置かれた立場が変わった。環境が変わった。
その中でもがいて生きている女性達を意識して書かれている。
つまりこれは昭和発・現平成の総合職スタート以降の世代で、
「自己実現」に載せられて結婚を逃してしまった ー というより ー これから逃してしまいそうな? 女性に向けてのエールと感じた。
香山リカ氏が50になったのが2010年。その数年前から香山氏は赤裸々に出産しなかったことを悔やんでいることを正直にカミングアウトする本を出していた。総合職第一世代として後進の女性たちへの道を切り開くために「これだから女は」と言われないように仕事に真面目に邁進してきて、ふっと気がついて周りを見渡してみれば・・・、という心境や矛盾した環境を綴っていた。
「恋愛の作法」は2009年に刊行されてる。
高橋クリニックにも多くの40代のキャリアウーマンが訪れていたのだろう。なんか危機感のようなものを感じたのかもしれない。本では説教がましい口調は一切ないが、その配慮がまた、「お節介爺の戯言ですが」的配慮がまた、実は「是非、耳に入れておいて欲しい」という親心のようなサムシング(エニシングか?)を感じる。
女性に向けて書かれているのだが、これが男にも身につまされる。
というか、
要するに仕事が自己実現であるかのような流れに巻き込まれて何かを見失った。喪失感でウツになってしまった女性。
というのは、男性も自分の姿を重ねて考えないわけにはいかないのである。という感じだろうか・・・。
「現代の草食男性にはむしろ女性の方から積極的に襲いなさい」というススメとかはやんわり冗談めいた表現にはなっているのだが、この辺りが宇野千代さんの書いた時代と現代の女性の置かれた環境の違いを浮き彫りにして、この本が現代に問う価値を表していると思う。
根本
こもり生活のQOLについて書こうと思っていたのだけど、やっぱりもっと根本の大事なことがある気がした。
こもり生活QOL向上のツールとしてPCでやってたことが一目で見易く見れるアプリとか、視覚化が上手い時間管理アプリとか紹介しようとか、
コロナで在宅ワークが増えて多くのリア充どもが、宅浪経験者やヒッキーが苦労した一日の自己管理の辛さに直面していることだろう、
今までいかに会社や学校システムに身売りすることによって自分で管理していると錯覚していて実は他者がペースメーカーになってくれていたか(もしくはしていたか)よくわかっただろうフハハハ、
なんてことをのたまおうと思っていたのだけど。
そんなのは全部、小手先の帳尻合わせの道具ばかりで、
やっぱり根本的には某巨大掲示板でD氏が訴えていたように金だろう。生活費をどうするか。
(橋掛けさん元気かな・・・)
D氏の書き込みで安心ひきこもりブッダ様も年金だと知った。
安心の下支えを、下支えする素材に年金が構造として含まれている。
その上に構築されている。そのうえでQOLだのなんだの言える余裕となる。それが順序だろう、本音の。衣食ととのって云々みたいな。
まあ、インドの僧もお布施と托鉢で生きてるわけだが。
あれはあれで、スマナサーラさんに言わせると、お布施を頂いているからこそ在家の人にちゃんとリスペクトされるくらい修行に励まなければならない、という構築があるそうな。(でもそれってなんか世間一般での、おんぶにだっこしてもらってるのだから、一生懸命にならないといけない、という生活保護バッシングの構造*1とどこか似てないか?(*1:食わせてもらってるのだから、非労働者以外は労働という嫌なことを引き受けているのだから、というなんか疑問の残る一元的な価値観がにおわせるおかしさを孕んでいるくせにそれを無視してバッシングする構造)という疑問もあるんだが・・・(*'ω'*))
「非労働者」を「不労所得者」に換えると理由としては不十分なことがより見えてきそうな気がする。
(ちなみにTナカヤマ氏は生活保護なんて恥ずかしい真似は出来ないみたいなことを以前書いていたが、今、出前取ったり家賃かかっていたりしてそれを負ってるのが氏の親父1個人という構造の方がまずくないか?恥ずかしいとかそういう枠組みで考えるのがズレてやいないか?(´-`).。oO(友蔵心の俳句) )
続く。